原住民という立場
2006.05.24 Wednesday 23:11
KontonさんのBlog前略。スターリンの5月11日コメント欄にてやりとりしていて、記憶の扉が開いたので記しておく。
張惠妹に興味を持ち始めた頃、原住民側から「阿妹の音楽は原住民音楽ではない」という批判があるという話を聞いたことがある。
「なんで?同じ原住民じゃん。応援してあげればいいのに」
そう思っていたけれど、今となってはその主張も分かる。
アーメイ(張惠妹)の出現は台湾民主化運動のうねりとシンクロしていた。
90年代以降、台湾が大陸反攻の幻想から目覚めはじめ、原住民側も社会的な運動を行い、それまでの“山地人”“山地同胞”という名前から彼らの望む“原住民”(もともと住んでいた民)という名前を勝ち取った。
それまでは台湾でアンタッチャブルな存在だったはずの台湾原住民に光があたりはじめた。
張惠妹以前の原住民歌手は「高山青(阿里山的姑娘)」「娜魯灣情歌」に代表されるような、山地歌と呼ばれる異国情緒溢れる歌を歌っていたり、その歌の巧さからか演歌っぽい台湾語(閩南語)の歌を歌っていた。
96年、國語(北京語)流行歌謡界に張惠妹が現れ、黒人のようなソウルフルな歌唱は多くの台湾人の心を捉え、POPSの世界にも原住民ブームを巻き起こし、“原住民”であることが歌の世界では一種の売りになった。
しかしそれを不満に思う人たちがいた。
つまり「原住民を売りにし、北京語の流行歌謡を歌って金儲けしてる」と。
張惠妹に興味を持ち始めた頃、原住民側から「阿妹の音楽は原住民音楽ではない」という批判があるという話を聞いたことがある。
「なんで?同じ原住民じゃん。応援してあげればいいのに」
そう思っていたけれど、今となってはその主張も分かる。
アーメイ(張惠妹)の出現は台湾民主化運動のうねりとシンクロしていた。
90年代以降、台湾が大陸反攻の幻想から目覚めはじめ、原住民側も社会的な運動を行い、それまでの“山地人”“山地同胞”という名前から彼らの望む“原住民”(もともと住んでいた民)という名前を勝ち取った。
それまでは台湾でアンタッチャブルな存在だったはずの台湾原住民に光があたりはじめた。
張惠妹以前の原住民歌手は「高山青(阿里山的姑娘)」「娜魯灣情歌」に代表されるような、山地歌と呼ばれる異国情緒溢れる歌を歌っていたり、その歌の巧さからか演歌っぽい台湾語(閩南語)の歌を歌っていた。
96年、國語(北京語)流行歌謡界に張惠妹が現れ、黒人のようなソウルフルな歌唱は多くの台湾人の心を捉え、POPSの世界にも原住民ブームを巻き起こし、“原住民”であることが歌の世界では一種の売りになった。
しかしそれを不満に思う人たちがいた。
つまり「原住民を売りにし、北京語の流行歌謡を歌って金儲けしてる」と。
先に紹介した「山地歌歌手」「台語演歌歌手」は比較的光の当たる場所に出てきた人々だ。
しかしそれ以外に、先ごろ金曲奬にノミネートされたフー・ドゥフー(胡徳夫)などに代表される、純粋に原住民としての立場を追求した歌を歌っていた人々が居た。それはまさにアングラの世界。
胡徳夫は70年代に「唱自己的歌」(自分たちの歌を歌おう)というかけ声の下起きたフォークソングムーブメントの主役と言える。
つまり借り物の、大陸から来た歌ではなく、自分たちの歌を歌おうと。
原住民の歌手は彼らの原風景としての山地を、部落を歌い、自らの原住民としての不遇を歌った。
そしてそれは歌うだけでは飽きたらず、社会を変えるべく政治運動に結びついていく。
世界中の先住民族がそうであるように、台湾の原住民も進学率が低く、就職率も漢人に比べて低い。
当然収入も少なく、社会的地位も低い。
貧しい人々が清らかな魂を持っているなんてのは現代人の幻想であり、貧しいが故に彼らは僻み、嫉む。
差別されれば卑屈になる。
「我々は貧しく、同じ原住民でもそれを売り物にして儲けているヤツがいる。」
そんな気持ちを抱くことを誰が責められるだろうか?
儲けた金は漢人の社会システムに還元され、自分たち原住民にそのおこぼれは回ってこないのだ。
また一方で原住民としての誇りもある。
原住民を商売に使ってはいけない。
高潔な魂は先祖から受け継いだ文化を売り物にすることへの抵抗を覚える。
矛盾しているがそのどちらも本当だと思う。
以前張惠妹が「古老達の歌を録音してそれを彼らに配った」と語っているのを新聞で読んだ。
「それは売り物じゃないの」
なんでっ!?売ってくれよ!
売ったらお金も儲かるし、なによりその歌が遠く離れた日本にも伝わるのに!!
そう思ったが今は彼女の気持ちも分かる。
彼女が「站在高崗上」(1997)以来しばらく原住民っぽい歌を封印していた理由も。
それは心にしまった宝物で人には見せたくない。
大事に、大事にしまっておきたい。
人が見たり、触れたりすれば、穢れてしまうような、そんな気がする。
本当に大事な宝物なのだ。
台東の原住民のおじいさん達と触れあい、彼らが私にとって肉親のように近く、大切な存在になったとき、私は自分の心に同じのものを発見してしまった。
だから中途半端に原住民音楽を使う流行歌手に怒りを覚える。
「原住民をバカにすんな!」と、反射的に思ってしまう。初めてそんな怒りを感じたとき、自分でも驚いた。
張惠妹にも過剰な期待をしてしまう。
「あなたは原住民の代表なんだから、もっと原住民のことをアピールするべきだ。世界に知らしめるべきだ」
ただそこに踏み込むことはマイノリティ問題に言及することであって政治の世界に足を踏み入れることになる。
彼女は一度ならず“政治”に痛い目に遭っている。
私はずっと彼女は自らの“原住民という立場”に深く踏み込まず、その周縁で付かず離れず、チャリティ程度の関わりで生きていくのだろう、と思っていた。
しかしアメリカ遊学が彼女を変えたようだ。
胡徳夫が所属する野火樂集主催の原浪潮という原住民音楽イベントを見に行って、フィナーレは末席ながらステージにも上がっていた。
原住民電視台の番組に出演して、弁当のおかずに野鼠が入ってた(!)とか山での生活を語っている。
そして原住民歌手が集い、原住民の子供達を援助するためのチャリティコンサートを企画しているという。
言葉でこそ明確な表現はしていないが、“華人天后”(華人の女王)ではなく、原住民という立場で社会に関わろうとしている姿が見て取れる。
それは平坦な道ではないかもしれないけれど、応援し、見届けたいと思っている。





comments
褒め言葉しか出ないので、泣きながら帰ります。
泣かしちゃった??
うーんとね、中に入っていけばいい経験もあるし、嫌な経験もあります。それでも私はあの人達が大好きだから、少しでも日本人に分かってもらいたいと思ってます。
実際散々迷いましたが、自分の経験をご披露できる範囲でご披露したいと思います、マル
っていうか野鼠をツッコんで、誰か、野鼠弁当を!!